自然の生命と日本人 ~国土と宗教・信仰…民俗学の視点から~

日本の自然・国土と宗教観・信仰について、延喜式、風土記等編纂資料のほか、地域の民俗学資料、各種民俗学文献から考察します。フィールドワークの記録も。

浦山の獅子頭・橋立鍾乳洞

休暇をもらえたので、思い立って、秩父の浦山地区・橋立鍾乳洞に出かけた。

まずは浦山民俗資料館におじゃました。エントランスに、浦山の獅子舞のチラシが貼ってあった。

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平日のためか、館内に訪れたのは私だけのようだ。

挨拶をして中に入る。特に撮影禁止等の注意書きはなかったので、迷惑にならないように気をつけながら、少し写真を取らせてもらった。

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これは入ってすぐに置かれている、浦山の獅子舞の獅子頭だ。黒い羽を頭に冠し、2頭は剣を携えているのが印象的だ。よく見る赤い顔に白髪の目出度い雰囲気の獅子頭とは雰囲気が違う。

舞い手は、日本刀の真剣を咥えて踊るらしい。説明書きを読むと、真剣を携えているもののうち、巻角のものが大雄、まっすぐの角2本のものが雄獅子だとある。真ん中のものが雌獅子だ。どことなく、雌獅子がいちばん恐ろしい顔をしていた。

説明によれば、この土地には「悪魔祓い」という独特の風習もあるのだという。興味深いので調べてみたところ、悪魔祓いを希望する家に、「獅子舞(この黒い獅子頭)→悪魔→将鬼大明神(悪魔の頭領)」という順で訪問し、終いに悪魔をひきつれて帰っていくという。強い悪魔が家に居る悪魔を従えて去っていくことで、家の不幸がなくなるということのようだ。悪魔役の舞手たちは、顔を白塗りした上から赤や黒の塗料を激し、独特の風貌で激しく舞う。この獅子頭も、悪魔たちと共に家に来るわけだから、そういった存在の象徴なのだろう。黒色で真剣を咥えている恐ろしい姿であるわけだ。

館内には、他にも、この地域の暮らし・民俗・祭事について展示されている。小さいが非常に美しい資料館なので興味のある人はぜひ足を運ばれると楽しんでいただけると思う。

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さてこの資料館から200メートルほど走ると、林道にさしかかる。

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その林道を少し進むと、「橋立鍾乳洞」にたどり着く。

眼前に非常に大きな大岩壁が現れるのですぐに判る。石灰岩の岸壁だそうで、この下に竪穴続きの鍾乳洞が連なっていた。

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鍾乳洞入り口で入場料をお渡しし、ヘルメットを借りて中に入る。洞内は撮影禁止だった。

中へ入れば鍾乳洞は未だポタポタと水をたらし生きている。資料には「第二次大戦頃まで鍾乳洞内にコウモリがいた」とあったが、なんの、今でもコウモリはおり、群舞していた。獣臭いにおいがし、天井は低くまっすぐ立っては歩けない。不気味、恐怖。そして非常に面白い。涼しいが息苦しい。平衡感覚がとれずグラグラしながら、コツコツと鍾乳洞を歩いた。何度か天井に頭をぶつけた。ヘルメットをお借りしていて本当に助かった。かつては胎内めぐりの霊場だったとのこと。納得の雰囲気。洞内にいる間中、霊気を感じ、足はがくがくと震えた。

地上に戻ると清まりたくて、冷たいミネラルウォーターで手を洗い、顔と首を洗い、口を濯いだ。怖かった、怖かったとつぶやいたあと、「しかし実に面白い場所だ」と一人、合点した。その後橋立堂を参った。こちらも撮影禁止だった。

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札所参りか、高齢の女性たちが林道を背筋を伸ばして歩いておられた。挨拶を交わし別れた。

 

帰り道中、連なる山系を見ながら、緑滴る日本の国土、その複雑で多様な大自然に、改めて感動を覚え、心が震えた。

 

※浦山地域については調査を深め追ってまたレポートします。

供物の変遷

日本で、ダム技術が発達するまで根深く残っていた(昭和初期まであったという説もある)と言われる風習、「人柱」の風習がある。川の氾濫や、うまく橋がかからない時、人を捧げる。例えば高木俊雄の『日本伝説集』には、以下の様な人柱伝が記載されている。

 

>一言の宮

或る年のこと、洪水で此堤が破れて、水がどうしても止まらず、畳を何十枚入れても少しも役に立たないので、所の者が困っていると、子を負って通りかかった一人の女があった。それを見て、「人柱に立てて仕舞え」と一人が言い出すと、早速皆の者が「そうだ、それがよい」と云って、其女を捕えて、無理に破れた場所へ投げ込んで了った。其の時に女が、「頼む」とか、「助けてくれ」、とか一言云ったそうだ。人柱の御蔭で、不思議にも水が止まった。後で、村の者が女を不憫に思って、宮を建てて祀ったのが、一言の宮である。(埼玉県北埼玉郡)

 

この話の恐ろしいところは、偶然通りかかった女性を無慈悲に人柱として川へ投げ込み、その時に共にいたものは皆それに賛同していた部分だ。

人柱という言葉の語源には、2つの解釈があって、ひとつは、「神をヒトハシラ、フタハシラと数えるように、捧げ物になった人も神としてハシラと数えた」という説と、「物理的な柱として人を供えることで安全が促進されたり建物が強くなるという俗信に基づく」というものだ。

先述の一言の宮の伝を読むと、この夫人を神のように村人が扱い捧げたとはとても思えず、この場合には人を捧げ立てることで、土地や河川がしずまったり、橋が強くなったりするという俗信に基づいた風習に思える。しかし実際に、神として人柱を尊んだ場合もあるだろう。

 

日本においては、人身御供・動物等の生贄は頻繁に行われていた。宮本常一は、神に捧げる酒もかつては血であったとも論じている。稲作の発展がこういった血の供物から日本人をある程度開放したという。往々に、過つては雨乞いに生き馬を捧げたり、日本の土着的信仰には、血なまぐさい側面がある。高木俊雄は、日本人にとって、「人間社会の発展は、神の領分を侵害するものである」という発想があり、そのため時に人命を捧げることで神の怒りをしずめることができると信じられた部分があるという旨を論じている。

「白羽の矢が立つ」の諺もあるように、人柱に立つことを名誉と考え、末々までその家系が集落で優遇される場合もあり、古来日本人は神を森羅万象生命を超越した畏怖畏敬対象として畏れ奉ってきた。

 

現代、日本は「無宗教」の国と論される場合が多いが、私にはとてもそのように思えず、むしろ常に神を畏れ神の目を気にしつづけている民族のように思える。それは現代人の深層意識にも根ざしていると感じる。

生贄、人柱の風習は悲しむべきものであり、人の大きな過ちの一つであるが、日本人が他民族同様、いや、それ以上に、いかに超自然的な霊性を備え重視した民族であるかを顕著に示す一例であるとも言えるだろう。

秦氏考(2)

日ユ同祖論において秦氏はイスラエル系(ユダヤ教を信仰している)の渡来民であるとしばしば論じられる。日本ーイスラエルとの関連を示すのは先述したミハシラ鳥居―バプテスマもそうだが、特に京の土地において様々な秦氏ーイスラエル指摘が行われている。かなり数が多く、インターネットでも検索すれば様々な論を目にすることができる。

 

例えば、秦氏の神社京都大酒神社がある。同じ秦氏の神社で、兵庫に「大避神社」という神社がある。これは同じ縁起と見ていいだろう。「大酒神社」=「大避神社」となる。

そして景教においてはダビデのことを漢字で「大闢」と書く。この闢の文字から「門がまえ」を外せば避になる。即ち、「大酒神社」=「大避神社」=「大闢神社」、ダビデを祭る神社であることが推測される。

 

大酒神社の由緒には以下のように書かれている。

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当社は、延喜式神名帳葛野郡二十座の中に大酒神社 (元名)大辟神社とあり、大酒明神ともいう。「大辟」称するは秦始皇帝の神霊を仲哀天皇八年(三五六 年)皇帝十四世の孫、功満王が漢土の兵乱を避け、日本朝 の淳朴なる国風を尊信し始めて来朝し此地に勧請す。 これが故に「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生れた。(中略)

機織のみでなく、大陸及半島の先進文明を我が国に輸入 するに力め、農耕、造酒、土木、管絋、工匠等産業発達に 大いに功績ありし故に、其二神霊を伴せ祀り三柱となれり。 (中略)尚、六〇三年広隆寺建立者 秦河勝は酒公の六代目の孫。又、大宝元年(七〇一年)子孫秦忌寸都理が松尾大社を 創立、和銅四年(七一三年)秦伊呂具が伏見稲荷大社を建 立した。古代の葛野一帯を根拠とし、畿内のみならず全国 に文明文化の発展に貢献した。秦氏族の祖神である。

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大陸ー朝鮮半島での戦乱から逃れたイスラエル系の民族が日本へ避難・渡来し、彼らの信仰をひっそりと継承しながら、大陸文化を日本に示しその力をもって地位を確立し、定住していった。その民が秦氏であるいうと仮説も多く見る。

 

秦氏考(3)へ

秦氏考(1)

宮本常一『日本庶民生活誌(中公新書)』を読んでいると、興味深い記載があった。秦・機・畑(ハタ)の3つの言葉には、深い関係があるのではないかという。というのも、養蚕を行う(そして機織りを行う)にはそもそも、桑を植えねばならず、その桑畑の定畑化から、日本の定畑作が発展した、秦氏はその技術発展の中心にいたことが想像され、『畑(ハタ)』はそういった由来の言葉ではないかという指摘だった。秦氏は、「養蚕、機織り、製陶技術」という、工芸技術だけでなく、「耕作・定畑作」の中心とし農業にも強い影響力を持っていたのだろうか。

 

秦氏の信仰としては木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)があり別名『蚕の社』と呼ばれる。そしてこの境内には「ミハシラ鳥居」がある。

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 葛飾北斎画:『北斎漫画』『三柱鳥居』(Wikipediaより)

 

このミハシラ鳥居は、各正面に立つと、北方に双ヶ丘、西方に松尾大社、東方に伏見稲荷を向く。双ヶ丘は古墳であり、伏見稲荷も古墳であり、松尾大社もその鎮座する松尾山には古墳が点在している。ミハシラ鳥居が置かれているのは、「元糺の池(モトタダスノイケ)」という池で、その水流には階段が設けられており水に降りられる。これは古代イスラエルの バプテスマ(洗礼)を施す聖所に大変類似しているという。

 

秦氏考2に続く

 

自然の中の安全 ~登山者の技術を学ぶ~

自分は、フィールドワークで山に入ることはあれど、登山家であったり登山者であるわけではない。だが登山家の著作や、登山者向けの著作に、よく目を通している。また、登山者の友人から話を聞き、直接、山行の技術を手ほどきしてもらっている。実際フィールドワークに入るときにもこれらの情報を参考に準備する。山行をする人たちは自然に対する感受性なみなみならぬものがあり、また、自ら/仲間の生命・身体に対する責任意識が、一般の人より格段に高いと感じる(個人差はあるだろうが)。

 

最近手ほどきしてもらっているのが、読図の技術だ。友人に基礎から教えてもらっている。地図記号を覚えることと、コンパスの使い方を練習している。まずは、地形図を見ながら、谷や尾根、沢など、図から読み取った情報を書き込んでいく。その後、友人とともに、入山・入渓し、コンパスと地形図を見ながら、自分が読図した情報と対照し、山行をする。非常に難しいなと思う反面、こういった技術を習得することで、よりいっそう、自然と人間の関わりに思いを馳せることができるように思う。地道な積み重ねが、自分の精神を強くしてくれる。

 

以前、こんなことがあった。

ある渓谷の、ちょっとした斜面をのぼった(低い斜面)。念のためと、友人が目印に短いロープを張り、写真を撮るために斜面から尾根を越えていった。私は数分、友人の後を歩いたが、自分には無理があると思ったので、「さっきのロープを目印に、先に降りている」と伝えた。安全な道なので、友人はOKをくれた。

私は早速、ロープに戻ろうとしたが、ほんの数メートル手前にあるはずのロープが見当たらない。「誰かがロープを外してしまったのだろうか?」混乱しながら、「登ったはずの」斜面を、滑るようにして降りた。

降りた後、周囲を眺めると、私が降りてきた斜面は登ってきた斜面とちがっており、数メートル横にロープはぶらさがっていた。ほんの数メートルでも、自然の中にいるとこんなに道に迷ってしまうのだと、体験した出来事だった。(友人は全く迷わず帰ってきた)

自然の中で安全に目的を遂行するには、冷静さと、技術が不可欠だと、その時、あらためて思い、友人に「弟子入り」したような感じで、今も勉強を続けている。

 

 

塵輪 ―火山のイマジネーション―

石見神楽の演目に、「塵輪」というものがある。

 

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 (写真は、浜田市観光協会のサイトより)

 

これは仲哀天皇の御世に塵輪という鬼が現れ悪事をつくし、それを成敗する物語だ。

 塵輪は、黒い雲に乗って空中を浮遊し、人々を虐殺されたとされている。

 

 縁起とされる『八幡宮縁起』には以下の様な記載がある。

「天皇みづから五万余人の官軍を相したがえ、長門ノ国豊浦ノ宮にして異国の凶賊を禦がしめ玉う。この時異国より塵輪というふしぎのもの、色はあかく、頭八ありてかたち鬼神のごとくなるが、黒雲に乗て日本に来り、人民をとりころすこと数を知らず」 

 

 赤い皮膚、8つの頭、黒い雲・・・どこか、火山噴火を思わせる伝説だ。赤い皮膚は溶岩、8つの頭は溶岩のながれ、黒い雲はそのまま火山煙のように思える。長門国(山口県)には、火山群がある。

 

噴火した火山の恐ろしさを古代の人々が鬼の行状と感じ、このような伝説がつくられたと想像すると、かつての日本の自然の力とロマンを感じる。

 

by 自然の生命と日本人 author:スイチョク

クマ・ヤマビル・虫さされなどの対策

町を離れ、里山や山地にフィールドワークで入る時は、捻挫等の怪我以外に、

  • クマ
  • ヤマビル
  • ハチ・アブなどの虫さされ、ヘビなどの咬傷

など、動物・昆虫による負傷リスクにも充分、気をつける必要があります。そこで、この記事ではそれらへの対策を御紹介します。

 

クマ対策

クマには、「出会わないようにする」のが一番大切だと考え、このようにしています。

  • 突然出会わないようにゆっくりと歩く。(クマが人間に気がつけるように、出会い頭の接触を避ける意味で)
  • 鈴をカバンと腕にとりつけ、音を鳴らしながら歩く。同行者がいたり、鈴の音色が気になる場合は、ホイッスル笛を鳴らしながら歩く。
  • 万が一のため、熊スプレーを携帯する。

基本的なことですが、こうしていれば、子連れのヒグマにでも出会わない限りは、大丈夫かと思います。クマだって、そうそう人間を襲いたくはないでしょうから。

熊スプレーやナタなどでの撃退は、クマとの距離がだいたい1~5メートルほどの至近距離になりますので、本当に最悪の事態の時の手段です。その距離にクマが迫っていてクマが興奮している場合(直接撃退行動を取らなければいけない状態)では、基本的に怪我は避けられないでしょうから、やはり「接触を避ける」ことこそ最重要の対策だと思います。

大切なのは、森や山はいろいろな動物の住居であることを真剣に尊重し、謙虚な気持ちで慎重に入山することだと思います。入山後はダラダラせずに、スムーズに工程をこなす気合も大事です。危険を感じたり体力が失われた場合には、目的を達成できていなくても、即、工程を中止する判断力も必要です。

 

ヤマビル対策

ヤマビルは本当に嫌なもので、噛まれても痛みがなく気がつけば咬まれた箇所が血まみれになってしまいますし、後日痒みも残ります。

噛まれないためには、まず服装が肝心です。

  • 半袖・半ズボンは避け、長袖を着用。できれば首周りも保護する上着が好ましいです(ヒルは、頭上からもふってきますし、足元にとりついたあと、首元あたりまで登ってくる場合があります)足にはスパッツを履くか、長靴。女性の場合、ストッキングを履いておくとヤマビルは皮膚に噛み付くことができません。
  • もし噛まれたら、塩もしくはアルコールをかけるとあっという間に剥がれます。
  • 剥がれた後は、ヤマビルの成分でしばらく出血が止まりづらいです。清潔な水でよく傷口を洗い、傷口をすこし圧迫し、その後、ガーゼ等で保護すると良いです。

 

虫さされ・ヘビ等の咬傷対策

服装は、ヤマビル対策と同様に、長袖・長ズボンを基本にします。

ハチは黒色に反応して攻撃行動を起こしますので、入山するときは黒い服装は避けます。また、香水の多くにハチを刺激する成分が含まれていますので香水も避けたほうが無難です。それでも虫さされやヘビからの咬傷を100%防止するのは難しいので、

  • ポイズンリムーバー
  • ヒスタミン剤入の軟膏(市販の虫さされ軟膏はだいたいそうです。使用感や効果の強さは、薬局でおたずねいただくと薬剤師さんが教えてくださいます)

を、必ず持参すると安心です。ポイズンリムーバーはアウトドア関連のお店や通販で簡単に購入できます。※ハチやヘビに咬まれた毒を、口で吸いだすと、口に傷があった際など大変危険です。

 

こういったことを準備するだけで、心構えもでき、気持ちも引き締まります。フィールドワークとはいえ、山地・里山の自然の前では、謙虚になって、甘えや軽薄さを捨て、準備をしっかり行い、安全で充実した時間にすることが大切だと感じています。

 

 

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by 自然の生命と日本人 author:スイチョク